レビー小体認知症の母親介護日記

レビー小体認知症になった母親介護の日記

もうすぐ一周忌

お母さんの月命日(30日)になると落ち込み、介護中にあったことを色々思い出しています。

 

そこから、なにか文章にまとめようとすると、言葉にはまとまらない感情で
「ただただ生きていてほしかった」
ということになっています…

 

思い出すのはだいたい下記の内容です

  • トイレに連れて行く
  • 手の指が固まっていることがあるのでよく手を握ったら「女の子みたいだね」と言われたこと
    • 手を握ると子供のようだと言いたかったのだと思います
  • 頑張って箸を使って食事している様子
    • ボロボロ落としていたのをお父さんが拾って食べさせてました
  • 毎日、お母さんの年齢を聞いたり、お昼何を食べたか聞いたりしていたこと(短期記憶を使ってもらうように)
  • 亡くなる前日に苦しんだ発作があってそれの対応をちゃんとできなかった悔しさ

認知症後期、結構無表情になってしまったので、ふいに笑った写真が残せたのは良かったかなと思ってます。

 

亡くなった直後の母の顔色は、トラウマで思い出さないようにしており、これは1年経とうとしても乗り越えられません…

老老介護を考える

 

ヤフーニュースで「認知症の妻を暴行」というの見て色々思うことがありました。

 

news.yahoo.co.jp

 

容疑者の夫は71歳、被害者は68歳ということで、老老介護で介護疲れからの犯行だったのかなと思います。

 

僕の母も認知症で、父が母に暴力をしていたのを何度も見て、警察に相談しようと何度も思いました。

実際に、ケアマネジャー経由で地域の相談所には相談しました。

 

父も、母を毎日つきっきりで、起きてから寝かすまで対応していて、トイレやお風呂、食事、薬を飲ますのも毎日やっていたので、母がわめいたとき(認知症によるもの)に暴力をしていました。(過去記事でも書きましたが)

 

認知症は治るものではないので、父はどう接して良いのかわからず、悩んでいたのかと思います。

ただ、母も認知症になりたくてなっていないので、ただ暴力されていたのは、本当に僕としては可哀想でしかたありませんでした…。

 

介護疲れによる暴力は、ケアマネジャーや訪問介護の人からは、結局は施設に入ってもらい距離を取るしかない、というものでした。

 

ここで問題になるのは、施設はかなりお金がかかる、というところで、施設も要介護認定を受けたとしても、それでもお金がかかります。

それもあって、この介護疲れによる暴力問題はなくならないのだと思います。

 

認知症になった家族につくす人生を送る覚悟がない場合は、

役所などどこかに相談する、ということを、家族としてまずは行動する、ということをもっと知ってほしいと思ってます。

(追い詰められ暴力に、はしってしまう恐れがあるため)

 

なんとかなる、ということはないので、周りを巻き込んで対応しないとお互いが損をすることになるので、高齢化社会なのでそのような地域社会になることを切に願います。

お盆の夢

今朝お母さんの夢で起きた
うっすら涙も出てた

なんで死んでしまったんだろう
なんでもっと早く介護してあげられなかったんだろう
お風呂もつかる介助しなかったんだろう
沢山の後悔の念

ただ認知症の中
色々僕のことを心配してくれて嬉しかった
(大半は話が通じなかったりしたので)

お母さん今までありがとう
天国では今は歩けるようになったかな

これ書いてたら涙が止まらなくなった…

じゃがりこの思い出

この前、姪っ子が実家に来たとき「じゃがりこないの?」と聞かれたとき、
「あれは、お母さんが食べる用だったから…」
ということで、姪っ子も察して質問はなくなりました。

 

じゃがりこは、手が震える母でもつまめて食べれるお菓子だったので、
お母さんも「じゃがりこ頂戴」と言ってきて、食べてました。

 

お母さんが亡くなった以降は、じゃがりこは買わなくなったのですが
最近暑くなり塩気が欲しくなったので、じゃがりこを買ってみたのですが
やはり、お母さんを思い出しますね。

 

お母さん、総入れ歯だったけど、「ポリポリ」と良い音をたてて
食べていたので、微笑ましい思い出でした。

 



 

棺桶にいれられるもの

よく例え話で自分が死んだときに棺桶にはこれを入れてほしい

というのを見かけたり言っていたのがあります。

例)よく使用していたこのカメラは棺桶まで入れていきたい、など

 

それで思い出したのですが、
母は死の直前まで足があまり動かせず、リハビリ用の靴を履いて少しでも
歩くのを練習するのを週2回行っていました。

 

そのため、母が亡くなったとき、「天国でまた歩けるようになって欲しい」と思い
棺桶には靴を入れてほしい、というお願いをしました。

 

そうすると、葬儀屋さんからは燃えるものしか入れてはだめということで
結局、棺桶に入れられたのは、「手紙」のみでした。

 

リハビリ用の靴も、すぐ履けるようなフェルト生地のものでしたが
それでもだめだったのですが、
使用した火葬場は自治体管理のものなのでしょうがないかなと思いました。

 

今でも、母が天国でどのような生活をしているか、ぼんやり考えることがあります…

 

www.yoriso.com

母にしてあげたかったこと(後悔)

前にも書いたかもしれませんが母は、毎日あそこが痒い、と言って、

「お風呂に浸かりたい」

と言っていました。

ただ、手足がちゃんと動かない状態で、お風呂の介助するには結構難しく、専門の方にやってもらうか、二人がかりで行う必要があったため、訪問看護の方に、あそこの痒みに関しては、フェミニーナ軟膏を塗ってもらったりしてました。

 

それでも、母は痒い、「あそこがバリバリだよ!」と訴えていました。

訪問看護の人に見てもらった感じでは、カブれたり、湿疹みたいな症状は起きてはおらず、ただ痒さを感じていたのと、純粋にお風呂に浸かりたかったんだろうな、と今思い返しています。

 

その時、頑張ってでも、母にお風呂に入れてあげればよかったな〜と後悔しています…。

いずれ、お風呂に入れてあげようとは思っていたけど、突然死だったので、思うだけじゃなく、すぐに行動に移ればよかったなと今でも思ってます。

※毎日、シャワーで体を洗ってはいました

 

そういう経験もあって、介護の勉強をもっとしておけばなと今も思い、介護の資格の勉強を始めました。

 

job.kiracare.jp

それでも生きていて欲しかった

母が亡くなったあと、訪問看護の人に言われた

「コロナ禍で救急車を呼んで、一時的に助かっても病院で会えなくなったより、家族がいる中で亡くなったほうが、母は幸せだったかもね」

という言葉は確かにそうだったかもしれないとは思いつつ、

「それでも(病院で会えなくても)生きていて欲しかった」

と今でも思っています。

 

憎むべきはコロナ禍で、自分も入院したときは面会は出来ず、兄からの贈り物(救急車で運ばれてそのまま入院したので服が無かったため)も直接渡してもらえませんでした。

 

母は「要介護5」で特別養護老人ホームに、優先的に入れたのですが、母が嫌がって自宅で介護していたのですが、それに関してもコロナ禍では、一回施設に入ってしまうと会えなかったりしてしまったので、自宅で家族に会えたりしていたのは、母にとっては良かったのかもしれません。

 

ただ、母の突然死に関しては、もしかしたら24時間対応してくれる施設では、直前の異変に気づいてくれて、母が亡くならなかったのかもしれないなとおも思ってます…。

 

母が亡くなる前日まで、毎日他愛のない話が出来ていたので、難しいですね。

施設だと、毎日は会えてはいなかったと思うので。

kaigo.homes.co.jp