レビー小体認知症の母親介護日記

レビー小体認知症になった母親介護の日記

棺桶にいれられるもの

よく例え話で自分が死んだときに棺桶にはこれを入れてほしい

というのを見かけたり言っていたのがあります。

例)よく使用していたこのカメラは棺桶まで入れていきたい、など

 

それで思い出したのですが、
母は死の直前まで足があまり動かせず、リハビリ用の靴を履いて少しでも
歩くのを練習するのを週2回行っていました。

 

そのため、母が亡くなったとき、「天国でまた歩けるようになって欲しい」と思い
棺桶には靴を入れてほしい、というお願いをしました。

 

そうすると、葬儀屋さんからは燃えるものしか入れてはだめということで
結局、棺桶に入れられたのは、「手紙」のみでした。

 

リハビリ用の靴も、すぐ履けるようなフェルト生地のものでしたが
それでもだめだったのですが、
使用した火葬場は自治体管理のものなのでしょうがないかなと思いました。

 

今でも、母が天国でどのような生活をしているか、ぼんやり考えることがあります…

 

www.yoriso.com

母にしてあげたかったこと(後悔)

前にも書いたかもしれませんが母は、毎日あそこが痒い、と言って、

「お風呂に浸かりたい」

と言っていました。

ただ、手足がちゃんと動かない状態で、お風呂の介助するには結構難しく、専門の方にやってもらうか、二人がかりで行う必要があったため、訪問看護の方に、あそこの痒みに関しては、フェミニーナ軟膏を塗ってもらったりしてました。

 

それでも、母は痒い、「あそこがバリバリだよ!」と訴えていました。

訪問看護の人に見てもらった感じでは、カブれたり、湿疹みたいな症状は起きてはおらず、ただ痒さを感じていたのと、純粋にお風呂に浸かりたかったんだろうな、と今思い返しています。

 

その時、頑張ってでも、母にお風呂に入れてあげればよかったな〜と後悔しています…。

いずれ、お風呂に入れてあげようとは思っていたけど、突然死だったので、思うだけじゃなく、すぐに行動に移ればよかったなと今でも思ってます。

※毎日、シャワーで体を洗ってはいました

 

そういう経験もあって、介護の勉強をもっとしておけばなと今も思い、介護の資格の勉強を始めました。

 

job.kiracare.jp

それでも生きていて欲しかった

母が亡くなったあと、訪問看護の人に言われた

「コロナ禍で救急車を呼んで、一時的に助かっても病院で会えなくなったより、家族がいる中で亡くなったほうが、母は幸せだったかもね」

という言葉は確かにそうだったかもしれないとは思いつつ、

「それでも(病院で会えなくても)生きていて欲しかった」

と今でも思っています。

 

憎むべきはコロナ禍で、自分も入院したときは面会は出来ず、兄からの贈り物(救急車で運ばれてそのまま入院したので服が無かったため)も直接渡してもらえませんでした。

 

母は「要介護5」で特別養護老人ホームに、優先的に入れたのですが、母が嫌がって自宅で介護していたのですが、それに関してもコロナ禍では、一回施設に入ってしまうと会えなかったりしてしまったので、自宅で家族に会えたりしていたのは、母にとっては良かったのかもしれません。

 

ただ、母の突然死に関しては、もしかしたら24時間対応してくれる施設では、直前の異変に気づいてくれて、母が亡くならなかったのかもしれないなとおも思ってます…。

 

母が亡くなる前日まで、毎日他愛のない話が出来ていたので、難しいですね。

施設だと、毎日は会えてはいなかったと思うので。

kaigo.homes.co.jp

寿司を食べて母を思う

母はレビー小体型認知症だったため、パーキンソン症状も出ており、手足が動かなくなっておりました。

そのため、足は殆ど動かず移動は僕など介助者が支えながらの移動をしてました。

 

手の方もうまく動かせず、食事で箸もあまり使えなかったため、お昼ごはんは手づかみで食べれるお寿司をよく食べていました。

(普通のご飯だと前掛けエプロンをしても、ご飯がボロボロと落ちていました)

 

また、脳を使う思い出すリハビリで、

僕が会話するとき、「今日のお昼何食べた?」と聞いて

母は「お寿司」というやり取りを毎日してました。

(短期記憶をなるべく使ってもらうように)

 

そういうこともあり、母の命日である30日では、お母さんを思い出すため、お寿司を食べるようになりました。

葬儀後の食事会でも、お寿司屋さんでみんなでお寿司を食べたりもしました。

 

思い出の食事は大切にしていきたいです。

 

www.nmp.co.jp

 

母、半年忌

通常は49日の次は一周忌のようですが、半年ということもあり、お母さんの妹(叔母さん)、兄夫婦と甥っ子、姪っ子が集まり、母を囲んで食事をしました。

発起人は僕ですが、兄夫婦は一ヶ月に一回は来てくれていましたが、母と一番血が繋がっている、叔母さんが来る機会がなかったのは寂しかったので呼んでみました。

 

ちょうど、姪っ子の誕生日も5月末なのもあり、誕生日会も兼ねました。

 

僕はお母さんの写真を探していて、やはりコロナになってから兄夫婦も2020年から実家に来れず、写真がないということもあり、お母さんが徐々に動けなくなったりしていた姿の写真が残っていませんでした…。

 

僕がいるときはよく写真を撮るため、お母さんが亡くなる1年の写真はたくさんあります。

 

僕がお母さんの写真を欲しがっているのは、やはり、写真は記憶にも残るため、まだ元気だった頃の写真が残っていればなという気持ちでした。

 

甥っ子が生まれたとき、お母さんが甥っ子を抱いている写真を見たときは笑顔で本当に素敵だなと思いました。

 

これを読んでもらえた人には、ぜひ家族写真を撮って欲しいです。

スマホでも良いので記念に残ります。

悔いが残る選択(家族で過ごせる時間を疎かにしてしまった)

母は11月30日の朝3時に亡くなりました。

 

兄夫婦は毎月孫を連れて実家に来てくれていて、11月のときだけ僕は用事があって、お母さんと孫たちと一緒の空間に入れませんでした。

 

その時、お母さんは割りと笑顔で聞いた話では、突然笑い出したとお義姉さんが言っていたので、何があったのだろう?と思ってたり、一緒に入れなかったけど来月あるから、と思ってました。

 

その2週間後、母は亡くなりました…。

 

母と孫、お母さんにとっては亡くなる月に会えたのは幸せだったのかなと思いつつ、僕自身はその空間にはおれず、大体毎回集合写真を撮影していたのですが、亡くなる月の集合写真が無くて、本当に悔いが残っています…。

 

家族で過ごせる時間の尊さを今もなお感じています。

 

5月30日は、母が亡くなって半年になるため、直近の日曜日に兄夫婦やお母さんの妹も来て集まることにしたので、僕の予定は全部キャンセルして、お母さんを囲んで食事しようと計画中です。

しっかりしている母と心配してくれる母

認知症になってから、母は母自身のことを

「私はしっかりしている」

「私はいろいろ考えているんだよ」

と言ってくるようになりました。

 

逆に僕は毎日、「今日何を食べたの?」「お母さん何歳になったの?」と聞いたりしてました。

もちろん間違えたり、忘れたりしてましたが、僕としては、脳を動かすために思い出すことをして貰うのが大事かなと思ったので、質問したり会話したりしてました。

 

母もそれは自覚してはいるけど、母自身事より、僕のことを心配してくれていて、いろいろ言ってくれて、「ハッハッハ、お前太ったね〜」とか「考えているんだよ」と言ってくれました(突然、なにかのツボに入って笑うこともありました)

 

母は、やはり偉大で認知症になってツラいという感情はあったのかは、母は一度も言わなかったけど、子供に対して、そんな病状になっても心配してくれていて嬉しかったのを、今も大切な思い出となっています。

 

認知症になったひとに、思い出せない、忘れてしまう、ということを罵倒する人もいますが、僕は認知症になったことをもちろん責めず、それでも生きて考えてくれた母を偉大だと今も思ってます。

 

この記事を読んでくれた人も、認知症の人に特別扱いはせず、ちょっと忘れがちな人として接してほしいです。その人にとっては特別扱いされるのは嫌だと思いますので。

 

medical.francebed.co.jp